◆荒川の原野に鷹狩(たかがり)に出かけた将軍様が、足もとに群生(ぐんせい)するサクラソウのかれんな美しさに感嘆!!


 サクラソウが人々に注目を集めたのは江戸時代に入ってからのようです。
 サクラソウの培養(ばいよう)が始められたことに関するエピソードとして、こんな話が伝えられています。
 「あるとき荒川の原野(げんや)に鷹狩に出かけた将軍様が、足元に群生するサクラソウに目をとめて、その美しさに感嘆されました。これを見ていたお供のあるものが、このサクラソウを培養してうまく咲かせ、献上(けんじょう)したならばさぞかし喜ばれるだろうと計り、掘り取って帰ったのが始まりだそうです。」
 家康・秀忠・家光の三代の将軍は、植物や花に関心が高く、これが江戸時代の園芸の流行を促したとも言われており、決して作り話とも言い切れない感じがします。

 その後、宝永(1704〜1710)から正徳(1711〜1715)にかけての園芸の発展はめざましく、その間にボタン、ツバキ、ツツジ、キクなどが流行し、サクラソウもこれに刺激(しげき)されて、新しい変わり花を選び出すことが始まったそうです。
 享保(1716〜1735)のころになると、熱心な人たちは荒川の原野に出向き、花変わりをさがして歩きまわり、戸田ガ原でみごとな絞(しぼ)り咲きの花を見つけた人が、それを須磨浦(すまうら)と名づけ、名花として今に伝えられていると述べられています。
 天明から寛政(1781〜1800)のころには、桜草愛好家(さくらそうあいこうか)の地域的なグループが生まれ、作品を持ち寄り品評会(ひんぴょうかい)が盛んに開かれたそうです。大きなグループでは100人以上の会員が集まったとも言われています。

 ところで、当時のサクラソウの流行は、園芸の世界にとどまらず、経済的に力をたくわえた町人たちの文化が非常な勢いで広がり、春はサクラソウが咲く荒川の原野に遊びに出かけたり、町には掘り取ったサクラソウを売り歩く桜草売りの姿も見られたそうです。
 天保から幕末(1830〜1867)のころにはサクラソウの流行も落ち着きました。武家(ぶけ)の間の熱心な趣味家(しゅみか)により、毎年優秀花(ゆうしゅうか)を競い合い、とくに優秀なものを将軍に献上したといわれています。


◆存亡(そんぼう)の危機(きき)をむかえるサクラソウ!!


 明治維新を迎え、サクラソウは存亡の危機にみまわれます。四民平等(しみんびょうどう)により、熱心な培養家(ばいようか)であった武士が禄(ろく)を失いサクラソウどころではなくなったからです。
 さらに、明治政府(めいじせいふ)の近代化政策(きんだいかせいさく)により、古来からの日本文化は欧米(おうべい)文化におされて影をひそめ、サクラソウも浮世絵(うきよえ)などと同様に陳腐(ちんぷ)なものとみなされてしまいました。そして、輸入された西洋草花のためにその位置をとって代わられ、その傾向(けいこう)は現在まで続いています。


●参考文献:「さくらそう」 鳥居恒夫著 日本テレビ放送網株式会社 昭和60年4月17日発行●



 大正5年4月25日、田島ヶ原を視察する三好学博士(右から5人目)一行

 ◆大正5年(1916)4月、土合保勝会が「国民新聞」にサクラソウの保存を訴える。
 ◆ここから田島ヶ原自生地保護の動きは始まり、大正9年(1920)7月には自生地が天然記念物に指定される。

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